2025-10-28

現状維持バイアス ― 行動経済学が示す“提案が通らない理由”

BtoB 営業・マーケティング コラム

「合理的に考えれば、もっと良いはずなのに、なぜこの提案は通らないのか。」

営業やマーケティングの現場で、多くの人が一度は感じたことのある疑問です。優れた新製品や革新的な仕組みを提案しても、決裁の場では「時期尚早」「もう少し様子を見たい」といった反応が返ってくる。その背後には、人間の心理に根差した“現状維持の力”が働いています。

本稿では、この「現状維持バイアス(status quo bias)」を軸に、“新しすぎる提案”がなぜ受け入れられにくいのかを読み解き、営業・マーケティングにおける説得設計のヒントを考えます。

「現状維持バイアス」という見えない壁

「今のままで十分ではないか」――この言葉ほど、営業提案の場でよく耳にするものはありません。

どれほど合理的に考えても、現状を変える決断は容易ではない。それは意思の弱さではなく、人間の心理に深く根ざした傾向です。心理学ではこれを「現状維持バイアス」と呼びます。

この概念を体系的に示したのは、経済学者 William Samuelson と Richard Zeckhauser による研究※1です。彼らは1988年の論文で、人は新しい選択肢が合理的に優れていても、現状を維持する選択を好む傾向があることを実験的に示しました。

この研究では、複数の選択肢の中に「現状を続ける」という選択肢を加えるだけで、その選択率が有意に上昇したと報告されています。つまり、「何もしない」こと自体が心理的に心地よく、安全に感じられるのです。

このような現象の背後には、後にノーベル経済学賞を受賞した Daniel Kahneman と Amos Tversky による「プロスペクト理論」※2が示した人間の判断特性があります。

彼らは、人は利益を得るよりも損失を避けることを強く重視する傾向(損失回避)を持つことを明らかにしました。新しい提案を受け入れる行動は、潜在的な利益よりも「うまくいかなかったときの損失」が大きく意識されやすいため、自然と現状を維持する選択を後押しします。

つまり、プロスペクト理論が描き出した“損失を恐れる心理”こそが、現状維持バイアスを支える根本的なメカニズムなのです。

営業やマーケティングの現場でよく起こる「良い提案ほど慎重に扱われる」現象も、このバイアスによって説明できます。たとえば、新しいシステムを導入すれば効率化が見込めるとしても、導入過程で起こる不確定要素や、慣れたやり方を捨てる不安が先に立つのです。

このとき、意思決定者の頭の中では「メリットの比較」ではなく、「現状を変えたときのリスク回避」が優先されています。理屈よりも感情の領域で、変化にブレーキがかかっている状態です。

行動経済学の研究では、こうした“変化に対する抵抗”は一時的な迷いではなく、安定への本能的な反応だとされています。人間は不確実性を避け、既に知っている状態を「安全」と認識する傾向が強い。特に組織の意思決定においては、リスクを回避する動きが集団的に強化されやすく、「変わらないこと」が暗黙の安心を生むのです。

つまり、「現状維持バイアス」とは単なる消極性ではなく、私たちが安心を求める心理の自然な働きだといえます。そして営業提案の難しさは、この“安心の壁”をどう乗り越えるかにあります。

提案内容の合理性を高めるだけではなく、「変えることを安全に感じてもらう」――この視点がなければ、どれほど良い提案も前に進まないのです。

【出典】
※1 William Samuelson & Richard Zeckhauser (1988). Status quo bias in decision making. Journal of Risk and Uncertainty
※2 Daniel Kahneman & Amos Tversky (1979). Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk. Econometrica

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「良い提案」が拒まれる理由

営業やマーケティングの現場では、「論理的に正しい提案ほど通らない」という逆説的な場面が少なくありません。提案する側は「より効率的に」「より合理的に」と考え抜いた内容であっても、相手の反応は「よくわかるが、今は難しい」「タイミングを見てまた検討したい」といった曖昧な拒否で終わることが多い。そこには、感情と合理のズレが存在しています。

行動科学の観点から見ると、新しい提案ほど、受け手にとっては“優れている”よりも“未知である”という印象が先に立ちます。未知のものには必ず不確実性が伴い、それが損失の可能性として過大に評価される――この心理は、前章で触れたプロスペクト理論が示す「損失回避」の傾向に通じます。つまり、新しい提案が拒まれるのは、理屈ではなく「リスクを避けたい」という感情の反応なのです。

この構造は、組織的な意思決定においてさらに強く表れます。購買に関わる人数が多いほど、誰かが抱く不安が全体の足かせになりやすく、「慎重に進めるほうが安全」という意見が優勢になっていきます。提案の内容がどれほど優れていても、関与者の一人でも「変えないほうが安心」と感じていれば、意思決定は前に進みません。合理的な比較の場であっても、実際には“安心の共有”が成立しない限り、組織は変化を選べないのです。

営業現場で重要なのは、この心理的構造を前提に設計を考えることです。「なぜ採用されなかったのか」を自社視点で分析するだけではなく、「相手にとって何が“安心ではなかった”のか」を見極める必要があります。

たとえば、提案資料が“効率化”や“コスト削減”ばかりを強調している場合、相手の頭の中では「本当に今のやり方を変えても大丈夫か」という不安が膨らんでいきます。その不安が数値的な根拠よりも強く意思決定を左右してしまうのです。

合理的な提案が受け入れられないのは、理屈が足りないからではなく、「安心して変化を受け入れられる設計」が欠けているからです。営業において大切なのは、「正しさを示す」こと以上に、「安全だと感じてもらうこと」です。その違いを理解し、提案の中に“安心の物語”をどう組み込むかが、最終的な成果を左右します。

“安全に感じる変化”をどう設計するか

「良い提案ほど通らない」のは、相手が変化そのものに不安を抱いているからです。では、その不安をどうやって小さくすればよいのでしょうか。ここからは、現状維持バイアスを前提に、「安全に感じる変化」を設計する視点を考えます。

営業やマーケティングの目的は、相手を強引に動かすことではありません。むしろ、相手が“自分の意思で動いた”と感じられるように支援することが重要です。行動経済学者Richard ThalerとCass Sunsteinが提唱した「ナッジ(Nudge)」※3の概念では、人の行動を強制せずに“望ましい方向へ導く”設計が重視されます。この考え方は営業活動にも応用できます。つまり、相手の選択肢を狭めるのではなく、「自然と動きたくなる環境」をつくることです。

たとえば、提案の際に「全面的な切り替え」ではなく、「一部の業務から試してみる」というステップを明確に示すと、相手は心理的な負担を大きく感じません。いきなり“変えるか、変えないか”という二択を迫られると、現状維持バイアスが強く働きます。一方で、“少し試してから判断できる”という余地があると、人は安心して第一歩を踏み出しやすくなります。これは「選択の自由」を保つことで抵抗感を減らす典型的な方法です。

また、相手が“変える理由”を理解するだけでなく、“変えないリスク”にも目を向けられるように支援することが有効です。現状を維持することが、むしろ将来的な不安を高める場合があるとわかれば、変化の方が心理的に安全だと感じられます。このとき注意したいのは、危機感を煽ることではなく、「変わることで守られるもの」を明確に示すことです。人は恐怖ではなく安心を感じたときに、もっとも安定した判断を下すからです。

さらに、「他社もすでに導入している」「同業で成果を上げている」といった社会的証拠(social proof)も、安心感の形成に寄与します。社会心理学者のRobert Cialdiniは、著書※4の中で、人が他者の行動を“正しい判断の手がかり”として用いる傾向を示しました。ただし、このときに「多数が導入している」だけを強調すると、“追随の圧力”に聞こえることがあります。重要なのは、「同じ課題を抱えていた他社も、段階的に変化を進めている」というストーリーを添えることです。相手が自社の状況に重ねて理解できるようにすることで、安心感が生まれます。

“安全に感じる変化”を設計するうえで共通しているのは、「変化を小さく見せること」ではなく、「変化を自分ごととして受け止められるようにすること」です。そのためには、提案内容を“正しい選択肢”として提示するのではなく、“自然な選択肢”として提示する姿勢が欠かせません。人は説得されるよりも、納得したときに動きます。この構造を理解し、相手の心理に寄り添った設計をすることが、現状維持バイアスを超える第一歩となるのです。

【出典】
※3 Richard Thaler & Cass Sunstein (2008). Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness. Yale University Press.
※4 Robert Cialdini (2009). Influence: Science and Practice. Pearson Education.

「納得」より「安心」が先に立つ決裁プロセス

営業提案が「通るかどうか」を左右するのは、論理よりも“安心感”である――そう言うと感覚的に聞こえるかもしれません。しかし、組織の意思決定を観察すると、実際には「納得しているのに決裁されない」ケースが少なくありません。ここでは、なぜ“安心”が“納得”に優先するのかを考えてみます。

まず押さえておきたいのは、意思決定のプロセスが「理解→納得→承認」という直線的な流れではないことです。営業提案を受ける側の組織では、複数の関係者がそれぞれの立場やリスクを考慮しながら結論を出します。その際、提案内容の正しさよりも、「導入しても混乱が起きないか」「社内で反対されないか」といった心理的な安全性が優先されやすいのです。言い換えれば、提案が採用されるためには、“正解”である前に“安心して承認できるもの”でなければならないのです。

組織行動学者 Amy Edmondson の論文※5によると、チームの中でメンバーが「この場で発言しても安全だ」と感じられる心理的安全性を共有していると、学習行動(助けを求める、意見を出す、ミスを認めるなど)が活性化し、結果的にチームのパフォーマンスが向上することが実証されています。逆に、この心理的安全性が欠けると、メンバーは「立場が危うくなる」「責められるかもしれない」という不安から、行動を控える傾向が強まります。この構造は、組織の購買・決裁の場面にも通じます。提案が合理的に「正しい」と理解されていても、意思決定に関わる誰かが心理的なリスクを感じていれば、結論は容易に前へ進まないのです。

営業側が本当に考えるべきは、「どう納得させるか」ではなく、「どう安心してもらうか」です。安心とは、「理解できた」よりも一歩深い心理状態です。相手が自分の立場や責任の範囲で“安全に判断できる”と感じてはじめて、変化は現実の行動になります。そのためには、提案を“理屈の説明”として届けるのではなく、“決裁後の安心を具体的に描く”ことが必要です。

たとえば、「導入後3ヵ月間はサポートがつく」「段階的に試行できる」「他部門の負担を最小限に抑えられる」といった説明があるだけで、受け手の心理的負担は大きく減ります。このように、“変化を支える安全策”を明示することが、実質的な説得力を持ちます。数値や実績で納得させるよりも、「この提案なら、社内を巻き込みやすそうだ」「反対されても説明できそうだ」と思えることが重要なのです。

営業の現場では、「最後に決めるのは理屈ではなく人」だと言われます。その“人”が置かれている環境――社内での立場、周囲の反応、組織文化――を理解することが、安心を設計する第一歩です。相手が感じる不安を想定し、提案を「正しいもの」から「受け入れやすいもの」へと変えていくことが大切です。そうした視点を持つことで、現状維持バイアスを乗り越えるための実践的な道筋が見えてきます。

【出典】
※5 Amy Edmondson (1999). Psychological Safety and Learning Behavior in Work Teams. Administrative Science Quarterly

まとめ

営業やマーケティングの現場では、「良い提案ほど通らない」という現象がしばしば起こります。その背景には、合理性の欠如ではなく、人が変化を避けようとする心理――現状維持バイアス――が働いています。新しい選択肢を提示するほど、相手は「損失の可能性」や「不確実性」を過大に評価してしまいます。そのため、どれほど論理的に優れた提案でも、“安心して選べないもの”は採用されにくいのです。

重要なのは、この傾向を「非合理」と捉えるのではなく、「人が安全を求める自然な反応」として理解することです。営業の役割は、相手を理屈で動かすことではなく、変化に安心して踏み出せる環境を整えることにあります。言い換えれば、「正しい提案」を届ける前に、「安全に感じられる提案」を設計することが、現状維持バイアスを超える第一歩です。

そのためには、相手が感じる不安やリスクを想定し、「導入しても混乱しない」「自分の立場を守れる」と感じられる仕組みを明確に示すことが欠かせません。段階的な導入、サポート体制、他社の事例といった“安心の手がかり”が、提案を行動に変える支点になります。このとき大切なのは、数値的な優位性ではなく、「自分にもできそうだ」「社内を説得できそうだ」と思える心理的余白です。

現状維持バイアスは、人の防衛本能と深く結びついているため、完全に消すことはできません。しかし、その存在を前提に「相手が安心して変われる提案」を組み立てることはできます。営業やマーケティングにおける“成果の出る提案”とは、相手の不安を否定するのではなく、受け止めたうえで「この変化なら大丈夫だ」と思ってもらえる提案です。

提案を「正しさ」で貫くのではなく「安心」で支えるという視点の転換こそが、現状維持バイアスという見えない壁を超える最も確かな方法です。

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